道徳哲学史講義 ヘーゲル Ⅰ ヘーゲルの『法哲学要綱』
道徳哲学史講義 ヘーゲル Ⅰ ヘーゲルの『法哲学要綱』
第1節 「序論」
道徳哲学史講義 ヘーゲル Ⅰ ヘーゲルの『法哲学要綱』#697abc580000000000ae84c1
第2節 「和解としての哲学」
道徳哲学史講義 ヘーゲル Ⅰ ヘーゲルの『法哲学要綱』#697abca40000000000ae84c2
第3節 「自由な意志」
道徳哲学史講義 ヘーゲル Ⅰ ヘーゲルの『法哲学要綱』#697abca40000000000ae84c3
第4節 「私的所有」
道徳哲学史講義 ヘーゲル Ⅰ ヘーゲルの『法哲学要綱』#697abca40000000000ae84c4
第5節 「市民社会」
道徳哲学史講義 ヘーゲル Ⅰ ヘーゲルの『法哲学要綱』#697abca40000000000ae84c5
第1節 「序論」
pp.473-
1
ヒューム、ライプニッツ、カントといったどの著述家に関しても、私があきらかにしようと努めたのは、
1) 彼らによる道徳哲学へのアプローチにおいて何が独自なものであるのか、
2) わたしたちが今日読んでいるようなテキストを執筆するべく彼らが突き動かされたのはなぜか、
3) そして何を成就しようと願ったのか、
といったことだった。
わたしたちは、彼らの著作を現代の哲学的諸問題が生じてくるその道筋に沿って研究して、それ〔の解決〕に直接役立つであろうなんらかの哲学的な論証ないし分析的な思想を見出そう、とは思わない。そうではなく、わたしたちがヒューム、ライプニッツ、カントを研究するのは、彼らが深遠で独自な哲学的教説を表明しているからである。
2
2-1
ヘーゲルを論じるさいに据えるのもまさに同じ目的である。私が照準するのは、
1) ヘーゲルは〔道徳哲学をめぐる伝統的議論に〕何を付け加えたのか、
2) 〔それに関する〕彼の貢献について言えば何が特別なものであるのか、
という点である。
このことを念頭に置きつつ、簡潔すぎるほどにではあるが彼の『法哲学要綱』(『法の哲学』)(以下 PR)に注目する。
この著作は、ヘーゲルの道徳哲学と人倫( ethical life; Sittlichkeit )という独自の制度的思想とを含んでおり、またこの思想が、政治的社会的諸制度の体系 —— 諸個人はこの下で生活している —— に根ざし、それによって形成されたものとしての諸個人という彼の見解とどのように結びついているのか、を説明してくれる。これらは道徳哲学にたいするヘーゲルによる重要な寄与に数えられる。
残念なことに、彼の形而上学についてはほとんどまったく述べることができない。
〔しかし〕彼の道徳哲学ならびに政治哲学の大半はそれだけで成立しうると私は思う。〔たしかに〕多くのものが見失われるのは否定できない。『法の哲学』や『歴史哲学講義』の随所で形而上学は無視できない役割を演じるからである。世界の行程、ならびにひとつの時代から別の時代への歴史的移行に関するヘーゲルによる究極的な説明は、いわゆる精神または意識( Geist )において見いだされる。真正なる形而上学者である彼は、現実性は完全に叡智的〔=知性によって了解可能〕である —— これは絶対的観念論のテーゼである —— と信じているのであり、それゆえこの現実性は、理性的で整合的なカテゴリーの体系という諸理念と諸概念に合致するのでなくてはならないのである。この体系は『論理学』において順を追って開陳される。こういった根本的な問題群は傍はたに置くことにする。
(私見: 『法の哲学』の原典、例えば岩波文庫版、に当ると、意味のわからない言葉が出て来る。『ヘーゲル事典』で確認すると、だいた『論理学』または『大論理学』が参照されている。これらの言葉がロールズがいうところの「形而上学」に関わる部分だと思われる)
2-2
私はヘーゲルを漸進的な革命に共鳴するリベラリストだと解釈しており、そのリベラリズムは自由に関するリベラリズム( liberalism of freedom )をめぐっての道徳哲学ならびに政治哲学の歴史における重要な範例だと考えている
(私見:そもそもの「リベラリズム」とはなにか?「古典的リベラリズム」と「自由に関するリベラリズム」〔20世紀以降のリベラリズム〕について)
そうした範例としてはほかにカントがおり、それほどはっきりとした範例ではないがジョン・スチュアート・ミルもそうである。
〔私の『正義論』も自由に関するリベラリズムの一例であり、彼らから多くを学んでいる。〕
注目したいのは、ヘーゲルの考えでは、自由の概念はいったいいかにして歴史上のある特定の時点で政治的社会的諸制度を通じて人間世界においてほんとうに実現されたのか、という点である。
自由概念の理解の点で、ヘーゲルはカントによる超越論的自由の説明を拒絶し、そのうえカントによる倫理学の理解と道徳哲学の役割についての理解の双方を拒む。
以下に見ていくように、道徳哲学が伝統的に抱いてきた壮大な企図は、その多くがヘーゲルの理解する意味での政治哲学の企図のうちへと持ち込まれるはずのものなのである。
(私見:道徳哲学から政治哲学へのシフト。ロールズの『正義論』における、道徳哲学から政治哲学への架橋、の役割をヘーゲルの教説が担う)
2-3
今回の講義で私がとくに踏み込みたいのは、ヘーゲルが「自由な意志とは自分自身を自由な意志として意志する意志のことだ」と述べるさいに考えていることについての説明である。このフレーズは『法の哲学』第10節と第27節とに結びついているが、その意味を歪めてしまうことがなければと願うものである。
この意志は有限なものであって、近代国家の政治的社会的諸制度において明白にされるとヘーゲルが言うとき、彼は何を考えているのだろうか。
どのようにして、またどんな訳合いでそうであるのかを正確に了解するまでもなく、自由意志についてのこういった説明が、わたしたちがつい今しがたまで考察してきたカントによる説明とおおいに趣を異にするものであるだろうことは、もう察しうるところである。
この問題についてのヘーゲルの見解は、道徳哲学と政治哲学にたいする彼のきわめて重要な諸貢献のうちのひとつをなしているのである。
第2節 「和解としての哲学」
pp.475-
1
1-1
和解としての哲学に関するヘーゲルの見解について注意することから始める。
このことによって考えられていることを理解するために〔『法の哲学』〕序文の第5段落を考察しよう。
岩波文庫『法の哲学』上巻 序言 p.15
法、倫理、国家に関して、真理は、もろもろの公のおきて、公の道徳と宗教のうちに公表されており、よく知られているのとまったく同じほど古いのである。この真理は、思考がそれをこうした直接的な仕方でもつことに満足しないかぎり、〔 … 〕何を必要とするだろうか。真理が必要とするものは十全に理解されうるがゆえに、すでにそれ自身にとって合理的な内容が、合理的な形式をも獲得し、自由な意志にとって正当なものとして現れるのだ。自由な思考は、与えられたものののところに立ち止まりはぜず〔 … 〕、おのれ自身から出発するのであり、まさにそのことによって、おのれが真理とその最内奥において一体になったと知ることを要求するのである。
いずれにせよ、法、人倫、国家に関する真理は、古いものであるとともに、公共の法律や公共の道徳、そして宗教のうちに公然と表明されて、熟知されるものとなっているのである。この真理は、思惟する精神がこうした手軽な仕方でそれを所有することに満足しない以上は、これを概念によっても把握し、さらに、すでにそれ自体において理性的な内容に対して理性的な形式を獲得し、そうすることでその内容を自由な思惟のまえに正当化されて現れるようにすることを必要とするものだというほかはない。というのも、この自由な思惟は、〔たとえ、それが国家とかひとびとの意見の一致といった外面的な既成の権威によって支持されていようと、内面的な感情や心の権威やまた精神の直接的同意の証言によって支持されていようと、〕所与のもののもとにたちとどまるのではなく、自分のなかから出発し、そして、それによってまさに自分が最内奥において真理と一体であるのを知ることを要求するからである。
1-2
ここで「和解」という述語 —— ドイツ語の Versöhnung —— がふさわしいわけは、ヘーゲルの考えによれば自由を表現するのに最も適した諸制度の枠組みはすでに存在していることによる。それは現に目の前に存在しているのだ。
哲学、とりわけ政治哲学の仕事は、この枠組みを思考において把握することなのである。ひとたびそうすれば人間世界との和解がなされるにいたるだろう、というのがヘーゲルの考えである。
ここで人間世界との和解がなされるにいたる、とは、人間世界に従属するにいたるという意味ではない。〔問題は〕和解すること Versöhnung であって、諦めること Entsagung つまり従属することではない。和解とは、現実にある人間世界が、いくつもの不幸な選択肢のなかではあたかも最善のものであるようだ、ということではない。
むしろ和解ということが意味するのは、わたしたちは人間世界を、政治的社会的諸制度のなかでの生のひとつの形式であって、自分たちの本質を実現してくれる当のものだと理解するにいたったこと、言いかえれば、自由な人格としての自分たちの尊厳の基盤だと理解するにいたったこと、このことなのである。
和解は「こうして自由な思考にとって正当なものとして現れる」であろう。
2
2-1
それだから政治哲学の役割とは、ヘーゲルが理解しているように、人間世界を思想の形で把握することであり、また、この人間世界がわたしたちによって理性的なものとして理解されうるような、そういった形式において人間世界を表現することである。
「合理的」( rational )という事柄を表すためにヘーゲルが用いている言葉はここでは vernünftig である。カントを論じたときに述べておいたように、これはドイツ哲学では重要な述語である。これを、道具的な合理性とか、目的にたいして手段を選択するさいの合理性とか、経済的な合理性とかの意味に、誤解してはならない。「理性的」( reasonable )という英単語が〔 vernünftig には〕より妥当であることがしばしばある。人間世界とは自由を表現するものであり、日々の暮しを送るなかで自由に到達するのを可能にしてくれる当のものなのだと反省のさなかで理解するとき、わたしたちは自由との和解を遂げつつあるのである。
こうした役割を果たすことからするならば、哲学はたんなる学問的訓練であるにとどまらない。哲学は、わたしたち自身についての何かをわたしたちに告げているのである。すなわち哲学はわたしたちの意志が自由であることを、しかもわたしたちがこの自由を手にするのは諸制度を介してなのであって他のどんな仕方によるのでもないことを、わたしたちに示しているのである。
こうした理解を順を追って深めていくにつれて生の形式は実在的なものとなる。生の形式というものは、それが自己意識的なものにならないうちは、まったき意味で実在的ないし現実的( wirklich )であるわけではない、というのがその説明である。精神 Geist だけが人間の思想ならびに自己意識のなかで自分自身を十全に実現する。
こういう次第で、近代国家の形式は、こうした国家の政治的社会的諸制度の内部で諸人格の自由を表現しているのだが、国家において自分たちが自由であるのはなぜであり、またいかにしてであるのかを公民 citizens が理解しないうちは、完全に現実的なものだとは言えないのである。政治哲学の仕事とは公民がそのことを理解する手助けをしてやることである。
その視線は、この世界の彼方のあるべき世界へと向けられる〔ヘーゲルの考えではカントの哲学はそうしていたのだが〕のではなく、公民の自由がそこで実現される眼前の世界へと向けられるのである。
2-2
ここでヘーゲルはカントによる自由の思想を最も深い水準において攻撃しているのである。
彼の見立てでは、カントは、わたしたちの自由は、人間本性にかかわるあらゆる偶然性〔傾向性や欲求〕や社会や歴史にかかわるあらゆる偶然性を乗り越えて生じるのだと考えており、したがって、たとえ徐々にではあるにせよ、わたしたちが道徳法則に基づいて行為し善なる意志を成就することは —— そうすることをひとたび完全に決意しさえするなら —— いつも可能なのだと考えている。
このいわゆる超越論的自由〔の教説〕が暗黙に主張しているのは、世界のなかで諸人格が担う各々個別の運命がどんなものであれ、すべての諸人格は善なる道徳的性格〔善なる意志〕という人格の理想に到達する機会を平等に有しているということである。カントの考えでは、神が諸事物を案配しておいてくれたので、わたしたちはみな等しく救済に与あずかるべく仕事をするための力〔あるいは能力〕を有していることになるのだ、と言えるのかもしれない。
ヘーゲルは、適切な社会的枠組みとは独立に人間の自由が完全に実現されうるといった主張を否定しようとする。まったき意味で理性的かつ善なる生活を送ることができるのは、合理的〔理性的〕な人間世界、つまりその諸制度の構造によってわたしたちの自由を保証してくれるような人間世界の内部においてのみなのである。
そしてまた、どんな人間世界もわたしたちの幸福を保証してくれることはできないのだが、十全な幸福が獲得されることができるとすればそれはそうした人間世界の内部においてのみなのである。かくしてヘーゲルはかのピタゴラス学派の序言を支持する。
「息子を倫理的に教育する最良の方法をたずねたある父親の質問にたいし、ピタゴラス学派の一人はこう答えた。『息子さんを良い法律をもった国家の公民になさることです』」( PR §153)
3
3-1
このことから、ヘーゲルによるカント批判が有する別のレベルへと導かれる。ヘーゲルは当為 sollen の倫理学を回避しようとし、そのとき倫理学の論点を変更しようといとするのである —— 倫理学は何をしようと試みるべきなのか。基本的な移行が人倫 Sittlichkeit の思想において見いだされる。
当為
(参考 : 山口西田読書会 | 共に哲学する | 当為(sollen)と存在(sein))
「真理は當爲(Sollen) によつて成立するとされていますが、真・善・美 については、内容は異なりますが目指すとことは「斯くあらねばならぬ」という当為ではないのかと、私は考えます。キーセンテンスの記述は、真理に限定していると解しました。真理だけなのは、何故でしょうか」
「日本人というのは、・・・・ザイン(sein ~だ)とゾルレン(sollen ~べきだ)の区別もない」
自由を可能にするものとは、倫理的なものの配置であり、言いかえれば、合理的〔理性的〕 vernünftig な政治的社会的諸制度の全体的な統一体にほかならない。すなわち、家族、市民社会、国家がそれである。
3-2
ヘーゲルの見るところでは、カントの倫理学とは、日々の生活のなかで個別の状況に置かれた人々にそれぞれ応じた行為基準を与えるべく試みるものである。この行為基準は、定言命法の適用手続き〔= CI 手続き〕を介しての〔誠実で合理的な〕格率の吟味という形式において与えられる。 CI 手続きを用いることで、個人にたいして詳細で明瞭な回答が与えられる。
これとは対照的なことに、ヘーゲルが求めるのは、わたしたちが生きる人間世界それ自身の諸制度や慣習のなかに道徳的指針を見出すことである。というのも、これら諸制度や慣習は、わたしたちがそれに向かって成長しそれに沿って思考や行為の習慣を積み重ねていくものであるゆえに、わたしたちの一部分となっているからである。
カントならば、このような見解は自律の理念とは両立しえないがゆえにこれを拒むことであろう。〔しかし〕ヘーゲルが事情を見ぬいているとおり、カントは実在的な意味での自律を与えてはいない。このため、わたしたちは、よく考えてみればどの個人もが認めることのできる合理的〔理性的〕な人間世界の一員であるにちがいないし、自分たちの根本的な欲求に出会ったときに和解せざるをえないのである。
ヘーゲルは、習慣や慣習に基づいて行為が導かれているとき人々は自由にふるまうことができるし、現にそうしているのだということを〔この人々は、反省するさいには理性的であるのだと想定しつつ〕示そうと意図する。この条件に出会うのは〔古代ないし中世的世界とは対照的な〕近代的世界においてであり、そこでは社会的諸制度が主体性、個体性、個別性、またヘーゲルが実体性として言及するもの〔これは前三者をカバーする〕を、促進せざるをえないのである。
3-3
自由についてのヘーゲルの見解は、実体だけが完全に自由でありうるのであり、合理的な人間世界が実体である、というものである。さらに言えば、カント倫理学によって誤って唱導された自律〔の教説〕とは対照的に、諸個人はこのうえなく十全な自由を意のままにしうるものとして手にすることができるのであって、しかも合理的な人間世界の偶有性 accident 〔ヘーゲルの言葉では〕について自己反省し、それを是認するにいたるだけでそのことは可能なのである。
「偶有性」という述語からあきらかなのは、ヘーゲルにとっては、諸個人は彼ら自身だけでは実体であることができないこと、言いかえれば、諸個人は独力では自由であることができないこと、これである。むしろ、諸個人は実体の —— 合理的な人間世界の —— いわば偶有性なのであって、彼らが実在的な自由を手にするのはほかならぬそうした実体を介してなのである。
ヘーゲルの「実体 — 偶有性」という述語の用法はまったく誤りなきものであるわけではないし、誤解を助長するものであるかもしれないが、それにもかかわらずこの用法に反発してはならない。
人間世界それ自身が完全な実体性へともたらされるのは、諸個人の自己反省によるのみであり、彼らが〔合理的な〕人間世界と和解されてあることにおいてのみであり、彼らが人間世界を、合理的であってそれにしたがって彼ら自身の生が営まれる当の者として、正確に理解することにおいてのみであるにほかならないこと、このことを強調するのは非常に重要である。
こうして、合理的な社会的諸制度は、自由と、諸個人の行う実在的な自律とにとっての必然的な背景なのであって、同時に、諸個人の反省や判断や合理的〔理性的〕な行為は、必然的に人間世界の実体性と自由を成就することができるのである。
3-4
こういう次第で、ヘーゲルにとっては、カントとは対照的なことに、倫理を人倫として説明することの目的とは、何をなすべきか —— それは周知のことだ —— を告げることではなくして、わたしたちを現にある人間世界と和解させ、そのことで、思考と反省〔の対象〕を理想的な人間世界に固定してしまわないようわたしたちを納得させるようなことなのである。
というのも、理想的な人間世界について想いをめぐらす場合、わたしたちは現にある人間世界の欠点を延々と思案したあとにそれを批判したり非難したりするように思われるからだ。必要なのは、現にある人間世界の真正な本質を合理的だと見ぬくことで人間世界と和解するにいたることなのだが、このように見ぬくには件の〔人倫的〕世界についての哲学的な説明が、そして究極的には、歴史哲学を含むような、全体としての世界に関する哲学的な構想が、求められるのである。
4
4-1
ヘーゲルのカント批判はいくつかの論点からなるが、そのうちのある論点は他にくらべていっそう根本的なものである。比較的に深刻な批判のうちの二点を見てきたので、それほど根本的ではないがよりいっそう身近な論点のいくつかについても注意しておくことにしよう。
(私見 : ヘーゲルのカント批判のうち、深刻な批判の二点とは、)
1) 超越論的自由に対するもの
カントの考え : 神が諸事物を案配しておいてくれたので、わたしたちはみな等しく救済に与るべく仕事をするための力〔あるいは能力〕を有している
ヘーゲルの考え : 理性的かつ善なる生活を送ることができるのは、合理的〔理性的〕な人間世界、つまりその諸制度の構造によってわたしたちの自由を保証してくれるような人間世界の内部においてのみ
2) 道徳的指針を与えるものはなんなのかというもの
カントの考え : 日々の生活のなかで個別の状況に置かれた人々にそれぞれ応じた行為基準を与えるべく試みるもの。定言命法の適用手続き〔= CI 手続き〕
ヘーゲルの考え : わたしたちが生きる人間世界それ自身の諸制度や慣習のなかに道徳的指針を見出すこと政治的社会的諸制度、習慣、慣習
最もよく知られているのは、道徳性についてのカントによる形式的な構想はいくつかの点で空虚だというヘーゲルの主張である( PR §135)
4-2
ヘーゲルは、カントの道徳的教説にはそもそもまったく内容がないと理解しているのではない。なるほどたしかに CI 手続きは一定の事柄を排除する。ヘーゲルはこの点について異議を唱えてはいない。そうではなく、この手続きは、それが与えてくれるとカントが主張する内容をなんら与えてはくれない、とヘーゲルは理解するのである。しかも、この手続きがたしかに与えているのは、それについて知っていると当然に言われてよい道徳的諸結論ではない。つまり定言命法の適用手続きによっては道徳的知識は獲得されない。わたしたちはヘーゲルの言う人倫 Sittlichkeit のなかでのみ道徳的知識を得るのである。
4-3
さらに、 CI 手続きから引き出されてくる諸結論は、 —— カントがそう考えているように見えるように —— 〔その場かぎり妥当する〕固定的なものではなくあらゆる環境に妥当する。一にかかってそうした諸結論に到達するためにわたしたちは一定の偶然的な環境を想定し一定の背景的制約を与件と見なさざるをえないのだ、というのがその理由である。こういう次第で、一般にどの格率が許容されまた却下されるのかは、そうした〔偶然的な〕諸要因に依存することになろう。
カントが道徳法則 —— そこにおいてカントが特殊個別的な諸義務を表現するような普遍的な仕方で述べられたかぎりでの —— から引き出してくるのだと主張する諸義務は、多かれ少なかれヘーゲルにとって認めることのできるものだ。つまりヘーゲルは、カントが道徳法則から引き出してくるのだと告白する諸義務の枠組みについて争うわけではない。
しかしヘーゲルの考えでは、カントがこの内実に到達するのは、彼がその背景に合理的な人間世界をあらかじめ前提しているからであるにすぎない。件の背景を想定することによって、カントは主要な諸問題をあっさり回避しているのである。ヘーゲルにとっては、それらの問題こそがまさしく、理性的な人間世界を哲学的にどのように特徴づけるかにかかわる問題なのである。
4-4
第2のレベルにおけるヘーゲルの批判は、カントが与えようとしている種類の指針は不適合だというものである。
というのは、根本的な倫理的要求というものはわたしたちが人間世界に向き合うその仕方と関連づけれらるものだが、件の指針はこの要求に合致しないからである。知る必要があるのは、人間世界の諸制度が合理的であるのはどんな時であり、その諸制度の核心は何なのかだ、とヘーゲルは考える
5
5-1
ヘーゲルの見立てではカントを突き動かしているのは根本的な純粋さへの欲求であり、道徳法則それ自身に基づいて行為しようという欲求であって、それ以外の何物でもない。
彼の考えでは、これこそが熟練 prudence 〔の命法としての仮言命法〕と道徳性〔の命法としての定言命法〕とのカントによる区別、ならびに善なる意志を至高なものとする彼の説明の、背後にあるものなのだ。カントの説くところでは、自分自身を道徳的な行為主体だとみなすことになるのだというその仕方は、窮屈であり、また自己疎外的でもある、とヘーゲルは考えるのである。
5-2
a) 窮屈だというのは、第一に、わたしたちは人間世界または個別的共同体の成員であることを自明と見なしているわけだが、そうしたわたしたち自身についてまわる諸特徴をカントの教説は考慮していないからである。
また第一に、動機づけのレベルで、この教説は善なる道徳的性格と齟齬しない種類の動機をあまりにも限定しているからである。
5-3
b) 自己疎外的だというのは、カントの教説が要求する道徳的な生の形式は、日常生活における欲求や向上心の多くをしりぞけ、わたしたちをそれらからはるかに遠ざけてしまう結果、わたしたちはごく普通の事柄にも関心をもたない仕儀となるからである。
ヘーゲルが拒むのは、カントが熟練〔の命法〕と道徳〔の命法〕とを区別する点だと言う人がいるかもしれない。
それよりもむしろ彼は、日常生活の諸目的 —— 愛情や友情、家族や仲間、その他ありきたりな動機からおのずと追求されるようなすべての諸目的 —— は倫理的な生と、つまりいわゆる人倫と観世に合致することを認めようとしているのである。
6
6-1
ヘーゲルの見解の本質的な一面は、合理的な人間世界はけっして完璧な世界ではない、というにある。
実際のところ、合理的な人間世界は、人類の測り知れない不幸と苦痛の原因となる深刻な社会問題を抱えている。彼はなかんずく離婚や貧困や戦争について論じている。そしてヘーゲルは書く。
岩波文庫『法の哲学』上巻 序言(15段落) p.38
「理性を現在の十字架における薔薇として認識し、それによって現在を悦ぶこと。この理性的な洞察こそ、概念において把握しようとする内的な要求の生じた人々に哲学が得させる現実との和解なのである」( PR 序文 第15段落)
理性を現在という十字架のうちのバラ〔薔薇〕として認識すること、そうすることで現在を享受すること、この理性的な洞察こそは、概念によって把握することを、そして実体的なもののうちにあって主体的な自由を保持しながら、特殊的、偶然的なもののうちにたつのではなく、即自的かつ対自的に存在するもののうちにたつことを内面的に要求されているひとびとに対して、哲学が与える現実との和解である。
(私見: ヘーゲルの形而上学的なキーワード)
特殊、偶然
即自、対自
6-2
こういうわけだから、人間世界と和解することは、すべてがまったく申しぶんなく誰もが幸福なのだと考えることではない。理性的な人間世界とは、ユートピアではないのである。
そんな考えはおめでたく馬鹿げている。そうした世界はどこにもないしありえないのだから。この世界には不測の事態とか突発的な出来事、不幸や不運がつきものである。そういったものにたいしては、社会的な諸制度は、いかに合理的に設計されたものであったにせよ万全ではありえない。
しかしながら、合理的な社会秩序は自由を準備することができ、公民が自分たちの自由を実現することを可能にしてくれる。彼らの自由はたしかに保証されることができるのであって、ヘーゲルにとって自由こそが最大の善なのである。
もしわたしたちが幸運に恵まれており賢明に生きていくのだとすれば、自由のおかげで幸福を手にすることができるので自由は幸福を促進することになるけれども、幸福が保証されることはできないのである。
6-3
この点に関するヘーゲルとマルクスのちがいは、ヘーゲルは、近代国家の公民は客観的に見て現に自由であり、彼らの自由は国家の政治的社会的諸制度によって保証されている、と考える点にある。
しかしながら、彼らは主観的には疎外されているのだ。眼の前に広がる人間世界こそ我が家であるとは理解しない傾向が彼らにはある。彼らは人間世界をそうしたものとして把握しないし、そのなかで寛ぎ( bei sich : 自分自身とともにあるのだと)感じることもなければ、それを受け入れ支持することもない。
これとは対照的に、マルクスの考えでは、彼らは客観的にも主観的にも疎外されている。マルクスにとっては、疎外を克服することは、客観的な意味でも主観的な意味でも、革命を経た未来の共産主義社会を俟まつことになるのである。
第3節 「自由な意志」
pp. 483-
1
1-1
確認しておくが、わたしたちが理解したいと思うのは、「自由な意志とは自分自身を自由な意志として意志する意志のことだ」と述べるときヘーゲルは何を言おうとしているのかということである。
ここで扱うのは、〔『法の哲学』の〕緒論の第5節から第30節にかけてである。この部分は極めて難解だが、ヘーゲルが議論を始めている箇所であり、彼が出発点だとみなすものである。
しかし、このことがこの箇所を取り上げる唯一の理由なのではない。一般に人倫 Sittlichkeit の重要性を、また和解という企図における市民社会と法ないし権利の役割を理解しようとするならば、ヘーゲルがここで主張していることをぜひとも理解する必要がある。
1-2
意志するという概念を、なんらかの目的、つまりそれと一体だと意識しているかまたは自分自身のものとして受け入れている目的を、実現すべく行為することができるという概念だと見なすことにしよう。この概念はいかなる要素 —— またはヘーゲルがときに用いる言葉で言えば、契機 —— をもつものだと期待されるのだろうか。
契機
契機 Moment
ヘーゲル事典 p.127
或るものがその対立者と統一され、これと不可分の関係にある時、それはこの統一ないし関係の契機であると言われる。
このような関係のうちにあるということは、対立者へ移行しそこより自己に環帰するという反省の構造を有しているということであり反省されたものであることを意味する。それによって止揚されたものであることになる。それはその直進性を廃棄しており、しかも全面的に否定されているのではなく保存されているからである。
梃子においては、重さという実在的な面と中心からの距離ないし線分という概念的な面が結合されて一定の作用を生ずるが、それぞれの大きさが異なっていても両者の積が同じであれば同じ結果を生むという点で、両者は相補的かつ不可分の関係にあり、梃子を成り立たせている契機と呼ばれるのである。
(『大論理学』 5. 114)
〔『法の哲学』緒論の〕第5節から第7節にかけてを一連のものとして扱うことにする。
1-3
a) 第5節でヘーゲルは純粋に無規定な状態という要素〔を論じること〕から着手している。これは、どんな時点であれ、わたしたちの意識に現れるあらゆる限界と内容とを捨象して、なお残されているものである。こうした内容は本性的にまたは欲求や衝動によって呈示されるのだと仮定しよう。今のところは、自分はそうした欲求や衝動をまったくもっていないのだと想像してほしい。ヘーゲルは1824年から翌年にかけての講義で述べている。
「そもそも人間というものはあらゆる内容を捨象できる、つまりそれらから自分自身を自由にすることができる、かの内容が私の表象においてどんなものであろうと私はこの内容をなきものとすることができる。言いかえれば私は自分自身をまったく空虚なものとすることができるのだ。 …… 人間というものは〔…〕友情や愛情といった絆のすべてを、それがどんなものであろうとすべてを、なきものとすることができるのだ」
(私見: 「1824年から翌年にかけての講義」とは、岩波文庫の訳注から推察すると『宗教哲学講義』と思われる)
これは意志が自分自身に関してなすところの純粋な思想、すなわち純粋な思考それ自身である。第5節への註解でヘーゲルは強調しているが、思考することと意志することは、カントが強調するごとく二つの異なる事柄なのではなく、一つの事柄の二つの側面なのである。
1-4
b) 第6節でのヘーゲルの指摘によれば、自己は、意志することにおいて、この純粋に無規定な状態から規定を定立することへと移行する。つまり、意志することが意志それ自身に内容と対象を与える。自己は、原則として、このように何かある規定を定立することで、規定された現存在へと進んでいく。自己は、自分の内容を探求し、対象を得る過程を通じて無規定な状態を解消し、何かある特殊なものになるにいたったのである。
1-5
c) 第7節では意志の概念はそれに先立つ二つの要素が統一されたものだと主張される。意志の内容と対象は、意志それ自身に向けて回帰的に反省され、かくして普遍的なあり方へともたらされる。ヘーゲルが述べるようにそれが個別性である。
1-6
以上をまとめて捉えるなら、第5節から第7節は、意志の能力を、純粋に無規定な状態から意志それ自身を規定〔=決定〕し、ついでそれらを目的それ自身とする、
あるいは〔むしろ〕こう言おう、意志が採用した諸目的に意志それ自身を一体化させるものとして、性格づけているのである。
こうすることを通じて、意志〔もしお望みなら自己と言ってもいい〕 —— 自己は思考するとともに意志するものであること(第5節)を想起してほしい —— は、他の目的を採用することもできたこと、なんらかの目的を採用せざるをえないこと、採用した目的と一体化していなければならないこと、これらのことを知る。
他の目的を採用することもできたというのは、意志は純粋に無規定な状態から出発するからである。なんらかの目的を採用せざるをえないというのは、そうでないなら意志は空虚なままであり、現存在〔定在〕existence へと進んで意志それ自身を実現することはけっしてないからである。
そして意志を意志するとおりにふるまうなら、意志は、採用する目的と一体化しているか、または目的を自分自身のものとして採用するはずである。
2
2-1
この点で、自由意志の概念にふさわしいのはどんな内容であるかを議論しなくてはならない。
自由意志の概念とは、たんに、何であれそれが欲するものを意志するような意志の概念であるわけではない。〔そもそも〕自由意志とは、何であれたまたま持ち合わせている欲求なり衝動なりをいともあっさり採用する意志のことではない。この点でヘーゲルはカントを踏襲している。そうである以上、自由意志の概念とは、自由意志に特有なものを意志する意志の概念だという主張がなされることは、驚くにあたらない。
こうして、意志は、自由な意志であるかぎり、みずから規定〔=決定〕したものでなければならず、意志にとって外なる何かによって規定〔=決定〕されたものであってはならないのである。
このことに導かれてヘーゲルは、さきに引用したように第10節でこう述べる。
「意志は自己自身を対象とすることによってはじめて、それが即自的にそうであるところそのものに対自的にもなるのである。」
岩波文庫『法の哲学』上巻 緒論 第10節 本文 p.83
この内容、ないし区別された意志規定は、さしあたって直接的である。
こうして意志は、単に即自的に、すなわちわれわれにとって自由であるにすぎない。いいかえれば、それは総じてその概念のうちにおける意志なのである。意志は自分自身を対象とすることによって、はじめてそれは、即自的にそれであるところのものに対自的にもなるのである。
即自 Ansich ( An sich )
即自存在
ヘーゲル事典 p.309
「即自」は、「他なるもの」との関係なしに、単にそれ自身において ansich 主題とされているうことを、またされているものを意味し、「対自」と対になって、認識のあり方や、事物のあり方の段階ないしは、その本性を示す。「自分が自分に密着している」という意味があり、「自分の本性をぴったり身につけているが無自覚的」という意味になる。
例えば認識は、「即自」の段階から「対自」の段階へと高まり、その即自と対自の対立を超えて、さらに「即かつ対自」〔「即自的かつ対自的」〕へと高まる、と考えられている。例えば、子ども、青年、大人がそれぞれの段階に対応する。こうして得られた「即かつ対自」は、最初の「即自」への単なる復帰・再現ではなく、そこへ潜在的に含まれていたものの「展開」「実現」とみなされるが、しかし、その新たな次元においては、再びそれは「即自」となって、さらに展開していくこととなる。
認識の対象も、その認識のレベルに応じて、「即自」から順次、高次化してゆくが、他方、時間のうちで生成・変化するものについても、この図式を当てはめて考えられている。例えば種子が大木になる過程がそれである。ここには明らかに「運動」を「可能態」から「現実態」として説明するアリストテレスの影響をみることができる。
このような図式の実例を、ヘーゲルの著作のあらゆるところに見出すことができる。こうした考え方の背後には、一切は単独にあるのではなく、相互に、しかも重層的に媒介されている、という了解が控えている。
ここからすれば、「即自」は実は、「媒介」関係を捨象して得られた「抽象的なもの」、ないし「媒介」の「止揚」されたもの、にすぎない。例えばカントの「物自体」に対する批判はその典型的な例である。
対自 Fürsich ( für sich )
対自存在
ヘーゲル事典 pp.317-
「即自」が「他者」との関係を持たず、ないしは持ったとしても「我々」から見てのことであり、外的な・無関心な indifferent ものにとどまっているのに対し、「対自」は「他」との関係を可能にし、また「他」との関係を内面化したところのもの、「否定的な自己関係」である。
より正確に言えば、「即自」がそれとして「他」と関係しているように見えるのは、事態的にはそれに先行する「対自」において、「他」と区別された「自己」が成立しているからであり、かつそれを可能にしている「対自」の関係が捨象されているからである。「対自」なしでは、分節化されない。無差別の多様・混沌があるだけである。逆に言えば「対自」においてはじめて「観念性」 idealität という規定がはいってくる。 —— 「有限なものの真理はむしろその観念性にある」。分節化された世界としての世界は、対自の地平の上に成り立つのである。
即かつ対自 An und für sich
ヘーゲル事典 p.308
「即かつ対自」は、発展する存在や認識におけるその都度の最高の段階であり、対立の排除や隠蔽ではなく、対立を「契機」として保存したままでの統一である。その都度というのは、この過程が重層的なものだからであり、最終的には「全体性」「統体製」として示される「体系」全体を意味している。
言い換えれば、「即かつ対自」は「最初のもの〔始元〕」が、「自己自身によって、自己自身と媒介されたものとして、またそれによって同時に、真に直接的なものとして自己を示す」全過程のことであり、この意味で「前進」は「始元」の実現でもあり、それへの「帰還」でもある。
例えば『論理学』は「存在論」「本質論」「概念論」の三部からなるが、それぞれ「即自的概念についての論」「対自的概念についての論」「即かつ対自的概念についての論」と特徴づけられている。
下って第27節ではこう述べられる、
「自由な精神(第21節)の絶対的な規定〔…〕は自分の自由を自分の対象にするということ —— 自由が精神それ自身の理性的な体系となる〔「体系である・・・」 —— ヘーゲル〕という意味においても、この体系が直接の現実となる〔「現実である・・・」 —— ヘーゲル〕という意味においても、自分の自由を客観的なものとする(第26節)ということ、これである。」
岩波文庫『法の哲学』上巻 緒論 第27節 本文 p.112
自由な精神(第21節)の絶対的な規定、あるいは、そうよびたければ、自由な精神の絶対的な衝動といってもよいが、それは、意志が即自的にあるものである理念として対自的にあるために、精神の自由が精神にとって対象になるということである。 —— すなわち、それは、精神の自由が精神自身の理性的な体系としてあるという意味においても、またこの理性的な体系が直接的な現実であるという意味においても、この自由が客観的になるということである(第26節)。 —— 意志の理念の抽象的な概念は、総じて自由ないしたらんとする自由な意志である。
このおかげで、精神は対自的に、〔つまり〕理念として、意志が即自的にそうであるところのそのものになることが可能なのである。意志の理念という抽象的概念は、一般的には、自由な意志を意志する自由な意志ということである。
それから、より手前の第23節でこう言われる、
「意志はただこの自由においてのみ、まったくおのれの許にある。なぜなら、この意志は自分自身より他のなにものにも関係しないからである。したがってまた、何か他のものへの依存の関係がいっさいなくなるからである。 —— この意志は真であり、あるいはむしろ、真理そのものである。なぜなら、この意志が規定〔=決定〕するということは、意志がそれの現存在 Dasein においてありながら、つまり自分に対立するものとしてありながら、しかも自分の概念のとおりのものである、ということに存するからである。言いかえれば、純粋な概念が〔つまり意志の純粋な概念が〕、それ自身の直観を自分の目的および実在にしているのだからである。」
岩波文庫『法の哲学』上巻 緒論 第23節 本文 pp.105-
もっぱらこの自由においてのみ、意志は端的に自分のもとにある。この意志は自分自身以外の何ものにも関係せず、したがってまた、この意志のもとでは、何かある他のものへの依存の関係がいっさい、脱落しているからである。 —— この意志は真であり、あるいはむしろ真理そのものである。なぜなら、この意志が規定するということ〔の真の意味〕は、この意志が、自分の定在において、すなわち自分に対立するものとしてありつつ、自分の概念にかなうものであるという点に存するからである。いいかえれあb、純粋な概念が自分自身の直観をみずからの目的とし、実在性としているからである。
2-2
結構である。しかしこれらが意味しているのはいったいどういったことなのだろう!手はじめにつぎのように述べてみよう。
第一に、自分がその内部で自由でありうるような政治的社会的諸制度の体系を意志するとき、自由意志は自分を自由な意志として意志している。しかしこれだけでは不十分である。自由意志が自分を自由な意志として意志するのは、第二に、それらの諸制度の目的を意志するにさいしてこの目的を自分のものとする場合であり、第三に、それゆえに諸制度の体系を意志することになる場合である。
自由意志は、この体系の内部で、諸制度の取り決めにまつわるさまざまな公共的な特徴、つまりは自由な意志の〔もしくは自由の〕概念を開陳してくる諸特徴によって、自由な意志という自分自身の概念に向けて訓育されるのである。ここで訓育( Bildung 教養形成)ということの意義に注意してほしい。
2-3
つねに留意しなければならないことだが、ヘーゲルは、たとえばあなたの意志とか私の意志とかいったような個別的な意志について語っているのではない。彼は自由意志の概念について語っているのだ。
この概念は、精神 Geist の一側面であり、世界のなかで人類史を貫いて現実化されるのだが、この歴史においては、意志が自由であることを表現すべく、それぞれの時代によってよりふさわしい形式を採ることになる。ヘーゲルにとって法ないし権利 rights の体系とは、現実にもたらされた自由の王国なのである。
第29節で彼は述べている、
「法ないし権利とは、一般に、いっさいの現実存在するもの〔 Dasein 現存在、定在〕であり、自由な意志の現存在である。法ないし権利とはそれゆえ総じて自由であり、理念としてある。」
〔ドイツ語ではこうである。〕
「およそ現存在が、自由な意志の現存在〔である ist 〕ということ、これが法ないし権利である。」
岩波文庫『法の哲学』上巻 緒論 第29節 本文 p.113
およそ定在が自由な意志の定在であるということ、このことが法である。 —— したがって、法は総じて自由であり、理念として存在する
「法である」
岩波文庫『法の哲学』上巻 訳注 (5) pp.395-
1824-1825年の講義ではつぎのようにいわれている。
「法は自由にもとづいているのであり、この自由は理念でなければならず、定在を、実在性をもたなければならないのであって、この実在性が、法であるものなのである。法はまたしばしば、直線方式的なもの eine linea recta であるという、すなわち他のものに、規則に相応したものであるという意義をもつが、しかしここにおいては、法は自由な意志の定在なのである。 …… われわれは、法の表象、ひとびとが法とみなすものからははじめない。われわれの規定〔使命〕は自由なのであり、これは実現されなければならず、この実現が法である。法についてのその他の表象は誤っている。というのも、自由がみずからに定在をあたえるということが唯一必然なのであり、これが必然的内容である。この定義はいくつかの例によって解明されるだろう。そして、この論考全体がそのような例のひとつである」( VPR Ⅳ. 149 ) (『宗教哲学講義』)
2-4
この点を踏まえて主張したいのは、法ないし権利の体系 —— 諸権利の枠組みを含む政治的社会的諸制度の体系 —— を正当化するには、意志の自由な本性が表現されるためにそのことが要求されているのだということを示す必要がある、ということである。
かくして第30節では言われる、
「法ないし権利はなにかに総じて神聖なものであるが、その理由はもっぱらただ、法ないし権利が、絶対的な概念の現存在、自己意識的な自由の現存在だからである。」
岩波文庫『法の哲学』上巻 緒論 第30節 本文 p.115
法は、何かを総じて神聖なものであるが、それは、もっぱら法が絶対的概念の定在であり、自己意識的な自由の定在であるからである。
しかし、自由の概念の展開の相違から、法〔そしてさらには義務〕の形式主義が生じる。より形式的な、すなわち、より抽象的で、それゆえにより制限された法に対して、精神がみずからの理念のうちに含まれているのでさらにたち入った諸契機を自分のうちで規定し、現実化しているような、この精神の領域と段階は、より具体的で、それ自身においてより豊かで、より真実に普遍的なものとして、まさにそれゆえにまたより高次の法をもっている。
2-5
『法の哲学』でのヘーゲルの主張は、彼の描く諸制度の体系が、自由を表現し現実のものとするために —— 精神の歴史的発展におけるこの時点での —— 最適な体系だということである。
この主張がそのとおりであるなら、それらの諸制度は自由な意志にたいして正当化されることができる。これが諸制度の体系が正当化されることないし正統性をもっていることに関する、ヘーゲルによる捉え方なのである。
3
3-1
事柄は徐々にあきらかになりつつあるが、これでは依然として曖昧な部分が残されている。ヘーゲルが自由意志の概念を政治的社会的諸制度と関連づけることによって何を言おうとしているのかに関しては、誤った受け取り方をしないように慎重を期さねばならない。まず第156節の追加〔補遺〕から引用する。
「倫理的なものは善のように抽象的ではなくて、強い意味で現実的である。精神は現実性をもっているのであり、精神の偶有性がもろもろの個人なのである。だから倫理的なものを扱うさいには、いつも二つの視点しか可能ではない。すなわち実体性を起点にして考えるか、それとも原子論的な扱い方をして個別性を基礎とし、これから昇っていくかである。だが、この後のほうの視点は精神を欠いている。なぜならそれはひとつの合成物に行きつくだけであるが、精神は個別的なものではなく、個別的なものと普遍的なものとの一体性だからである。」
3-2
この箇所のポイントはこうである。
ヘーゲルの見解によれば、わたしたちは、すでに自由を欲求しているか、または実際のところ自由とは何であるかをすでに理解しているような所与の諸個人として、歩みはじめることはできない。
人々はあたかもすでに —— 別の例に即して言えば —— 快楽を、言いかえれば、一定の与えられた本性にかなった関心の充足を、具体的には、他の人々を上まわる富貴権勢をすでにして欲することを、要求しているかのように歩みはじめるわけではない、ということである。
もし事実としてそうなのだとすれば、これらの要求や意図は〔人間本性に〕適合していると想定されるので、〔そこから演繹的に〕あるべき政治的社会的諸制度が考えだされることもできよう。〔しかし〕快楽や富を要求することがどんなことであるのかを、社会的諸制度のいかなる体系からも独立にわたしたちは知っているのだと想定することは、あまりにも安易であるように見える。そういうわけで、わたしたちがもっぱら問うのは、それらの諸目的〔=前出の欲求や意図〕を満たすにはどんな体系が最良の道具であり最も効率的な手段なのか、ということなのである。
3-3
私の理解では、ヘーゲルが述べているのは、自分自身を自由な意志として意志する自由意志という概念はあるが、事実は〔それとは〕異なっている、ということである。
人倫を理解しようとする場合、歴史的に与えられた諸制度それ自身の体系から、つまりは現に目の当たりにしているその体系の実体性のうちなる人倫から、わたしたちは着手せざるをえないのである。このことからして、諸制度の体系がたんに人倫にいたる手段にすぎないといった思想をヘーゲルは拒否することが暗示されるかもしれない。
彼の考えでは、それらの諸制度が人倫を —— 今日しばしば用いられる言葉を使って言うなら —— 構成しているのである。けれども、ここで「構成する」ということの効果はいったい何であるのか。
自由にかかわる諸制度は、幸福や福祉のための手段としてのみならずそれ自身として善なのだと、ルソーやミルは考えた。
そして私の理解するところでは、正しさに関する諸原理が、人間の諸権利の枠組みを、すなわち各人の自由が他の万人の自由と共存しうる解放としての自由 Liberty の体系を、構成するのだと捉えたのがカントである。これらの諸原理の正当化は、その基礎を自由の法則としての道徳法則のうちに有しており、幸福原理とは完全に独立なのである(カント『理論と実践』8:297)。しかし私の考えでは、このような仕方でヘーゲルの意義をさらに論じることは不毛である。ヘーゲルのテキストの意味へと立ち戻らねばならない。
第4節 「私的所有」
pp. 489-
1
1-1
さきにヘーゲルを引用したのは、どんな種類であれ自由意志の概念が制度として具体的に表現されたものこそが法ないし権利の何たるかである、と彼が述べていることを示すためであった。この見解の晦渋かいじゅうさは、私の考えでは、ヘーゲルがそうした諸制度を描写する次第の詳細について考察することによってのみ、払拭ふっしょくされることができる。
わたしたちには、所有の場合を考察するための時間しかない。
しかし、所有の件に向かうに先立って、〔『法の哲学』〕第34節から第40節にかけての抽象的な法ないし権利の説明について、数語を費やしておきたい。〔それは〕第一の、かつ重要な論点であるが幸いなことにたやすく理解できる。
法ないし権利の体系が正当化されうるのは、この体系が、自分自身を自分の対象としてもつ自由意志の概念を現実的なものへともたらす〔か否か〕という観点からだ、ということを想起してほしい。そしてこのことが含意するのは、法ないし権利の体系は、それが人々の要求ないし欲求を満たす〔か否か〕とか人々の福祉に合致するか〔か否か〕といった観点から正当化されることはできない、ということである。だから功利主義的な正当化はこの場合には適当ではない。
ヘーゲルが第37節でのべているように、
「形式的な権利ないし法においては〔…〕問題は特殊的な関心、つまり私の効用ないし私の福祉ではなく —— 同じくまた私の意志の特殊的な規定〔=決定〕根拠、つまり洞察と意図でもないのである。」
岩波文庫『法の哲学』上巻 第1部 「抽象法」 第37節 本文 p.134
意志の特殊性は、たしかに意志としての意識全体の契機ではある。しかし、それは抽象的な人格性そのもののうちにはまだ含まれていない。それゆえに、意志の特殊性は、たしかに現存はするが、しかし、人格性すなわち自由の規定からはなお区別されたもの、欲望、欲求、衝動、偶然的な好悪などとして現存するにすぎない。 —— それゆえに、形式的な法において問題となるのは、特殊的な関心、私の利益や私の幸福ではない。 —— 同じく私の意志の特殊的な規定根拠、つまり洞察や意図でもないのである。
形式的な法
岩波文庫『法の哲学』上巻 訳注 (5) p.395
抽象法での法は、このように、個人の具体的特殊的事情が顧慮されない形式的なものであるところに特徴がある。それが近代的自由を保証してもいるが、あくまでもそれは外側からのものであって、自由の内面についての考察とか、具体的な人間関係、社会関係を通しての考察という立場からみれば、それだけでは十分でないということにもなる。
1-2
そうだとすれば、私的所有は自由について熟慮するという点に依拠するのでなくてはならない。というのは、自由はわたしたちの尊厳、ならびに法ないし権利の基盤だからである。
この点においてヘーゲルはカントを踏襲している。カントにとっては、道徳法則が自由の法則であって、この法則に基づいて行為する能力をもっていることがわたしたちの尊厳の基盤であり、わたしたちを諸目的の国の一員とする 、ということが真理なのであった
2
2-1
人格性をもつことによって私は自分自身をこうした人格として意識するのだと、ヘーゲルは言う(『法の哲学』 第35節)。
もちろん私は衝動や欲求によって突き動かされもするし、環境によって制約されてもいる。しかし人格としては、私はもっぱら自分にかかわるあり方をするもの simply self-relation なのであって、それゆえ私は無規定で自由な意志をもつものとして自分自身を知る。というのも、私は自分を突き動かす特殊個別的な欲望や衝動がなくても自分自身を想定することができるし、他の環境にいる自分を想像することもできるからである。
岩波文庫『法の哲学』上巻 第1部 「抽象法」 第35節 本文 p.131
この対自的に自由な意志の普遍性は、形式的な普遍性、つまり自己意識的であっても、その他の点ではみずからの個別性において無内容で単純な自己関係である。 —— このかぎりで主体は人格である。人格性のうちには、私がこのものとしてあらゆる面においいて〔内面的にな恣意や衝動や欲望においても、直接的で外面的な定在に即しても〕完全に規定され、有限でありながら、それでいてまったく純粋な自己関係であるということ、そして有限性のうちにありながら私を無限なもの、普遍性なもの、自由なものとして知っているということが属している。
「対自的に自由な意志」
岩波文庫『法の哲学』訳注 (2) p.394
意志は即自的かつ対自的に自由、すなわち本来的にもまた自覚的にも自由なものであるにしても、この抽象法の場面では、まずは実質的内容を欠いた、自分のなかでの思い込みでしかない自由が浮上してくるという意味がこの『対自的』ということばに込められている。
「人格」
岩波文庫『法の哲学』訳注 (3) p.394
人格、人格性には、ヘーゲルの場合、独特の意味があたえられている。
『精神の現象学』では、古代ギリシアのポリス共同体が崩壊して、ばらばらの個人が法〔ローマ法〕の支配のもとに登場してきた段階での個人のあり方を規定する概念として使われている。
ヘーゲルの場合、ここ(古代ギリシアのポリス共同体が崩壊)から近代(ヘーゲルの時代、18世紀、19世紀)までは共通の場面にあるということになっている。
『法の哲学』では、そのような歴史哲学的前提を踏まえながら、ばらばらのものとして抽象化された個人の規定、権利がなんであるかをあきらかにするために、この人格ということばを設定しているといえる。
これは、自然状態を設定して個人の自然権をあきらかにしようとしたホッブズの社会契約論の立場、また基本的にそれを踏襲したカントの法哲学〔『人倫の形而上学』〕の立場につながる。ヘーゲルは、社会契約論もカントも批判するのであるが、それらのもつ思想内容、すなわち個人や自由についての近代的法規定の類いは『法の哲学』のなかに取り込まれている。
他面で、人格はまだ個人を抽象的なものとしてしか捉えていないという限界を負っており、それがのちに、具体的内容規定を含んだ人倫の立場によって克服される理由になる
2-2
さて、ヘーゲルが第36節で述べるように、人格性は権利能力を含んでおり、抽象的で形式的な法ないし権利の体系の概念ならびに基盤をなしている。
そこで彼は「権利ないし法の命令はこうである —— 『一個の人格であれ、そして他の人々をもろもろの人格として尊敬せよ』」と述べるのである。
岩波文庫『法の哲学』上巻 第1部 「抽象法」 第36節 本文 p.134
1 人格性は、総じて法的能力を含み、そして抽象的で、それゆえに形式的な法の概念と法のそれ自身抽象的な基盤をなす。それゆえに、この法の命令は、こうである。一個の人格であれ、そしてもろもろの他人を人格として尊敬せよ。
2-3
しかし特殊個別的な欲求や必要は、それがわたしたちのうちに生じているあいだは、それ自身、人格性そのものの一部なのではない —— 言いかえれば、人格性が含んでいる権利能力の一部、ないしは、まして自由意志をもつべきそうした権利能力の一部ではないのである。
こういうわけなので特殊個別的な欲求や必要は、法ないし権利の説明と正当化にとっては関連がないのである。
第38節でヘーゲルは述べている。
「この法ないし権利の必然性は、それが抽象的だという同一の根拠からして、人格性とそこから生じるものを損なわないことという消極的なものに局限される。それゆえ、あるのは法ないし権利の禁止のみである。」
岩波文庫『法の哲学』上巻 第1部 「抽象法」 第38節 本文 pp.135-
具体的な行為や道徳的および人倫的な諸関係との関係でいえば、これらのいっそう進んだ内容と対比して、抽象的な法は単に可能性にすぎず、それゆえに、この法の規定は、単に許可ないし権能にすぎない。
この法の必然性は、この法の抽象性という根拠もとづいて、人格性とそれから帰結するものを侵害しないという否定的なものにかぎられる。それゆえに、法的禁止が存在するだけであって、法の命令の肯定的な形式も、その形式の究極的な内容に即すれば、禁止を根底においているのである。
3
3-1
私的所有の体系に関する目下の問いはこうなる。
私的所有の権利の体系は「人格であれ、しかして人格としての他者の権利を尊敬せよ〔」、そして「〕人格性およびそれにともなうものを犯すなかれ」とどのように合致するのか?
所有権 —— それを所有し使用し誤用しさえし、他者をそれから排除しそれを売却する権利 —— が正確な仕方で人格を尊重し、自由意志の概念を具体的に表現するのは、いかにしてであるか?人格への尊敬を示す私的所有の体系に関して3つの特徴を私的することができる。
3-2
人格の尊敬を示す私的所有の体系に関して三つの特徴を指摘することができる。
a)
自由意志の概念を論じたさいに、
(私見: 本講義 第3節「自由な意思」 道徳哲学史講義 ヘーゲル Ⅰ ヘーゲルの『法哲学要綱』#697abca40000000000ae84c3 )
意志、ならびに自由意志をもつものとしての人格は、自分自身の無規定な状態を解消し理念として存在すべく外的な領域に踏み込むのだ、と理解された。
ヘーゲルはこのことを第41節で繰り返している。
岩波文庫『法の哲学』上巻 第1部 第1章 「所有」 第41節 本文 p.141
人格は、理念として存在するためには、自分にみずからの自由にとっての外的な圏域をあたえなければならない。
人格は、即自的かつ対自的に存在する無限の意志が、最初のまだまったく抽象的な規定においてあるものであるがゆえに、このような無限の意志からは区別されて、この意志の自由の圏域をつくりだしうるものの方も同様に、この無限の意志とはまずは直接的に相違したもの、そしてこの意志からまずは直接的に分離可能なものとして規定されている。
補遺のタイトルは《所有の理性的本性》
ところで、意識にとって外的なものとは物件のことである。物件とは、何か自由なものではなく、したがって人格的ではなく、権利を欠いている(第42節)。
岩波文庫『法の哲学』上巻 第1部 第1章 「所有」 第42節 本文 p.142
自由な精神と直接的に異なるものは、この精神にとっても、それ自体としても、総じて外的なものであり、 —— 物件、自由ならざるもの、非人格的なもの、法も権利も欠いたものである。
岩波文庫『法の哲学』上巻 第1部 第1章 「所有」 第42節 註解 p.142
物件のドイツ語 Sache は、客観的ということば das Objektive と同じように、相対立する意義を具えている。ひとつは、それが問題のことがら Sache だ。問題は事実 Sache であって、人ではないと語られる場合のことで、実体的なものという意義をもつ。もうひとつは、人格〔つまり特殊的な主観などではない〕に対抗して語られる場合で、このときには物件 Sache は実体的なものの反対物であり、その規定からしてもっぱら外的なものにすぎない。 —— 単なる意識からはたしかに区別されなければならない自由な精神にとって、外的なものは、即自的かつ対自的に外的なものである。それゆえに、自然の概念規定は、自然それ自身において外的なものであるということになる。
岩波文庫『法の哲学』上巻 第1部 第1章 「所有」 第42節 補遺 p.143
《外的なもの》
物件から主体性が失われているとき、物件はただ単に主体に対して外的なものであるにとどまらず、それ自体に対しても外的なものである。空間と時間とは、こうした仕方で外的である。私は、感性的なものとしては、自分自身に外的であり、空間的および時間的に存在する。私は感性的直観をもっているので、私は、そのもの自身に対して外的であるものについての直観をもつのである。動物も直観することができる。しかし、動物の霊魂は霊魂を、すなわち自分自身を対象とはせず、外的なものを対象とするだけである。
ところが、抽象的な権利ないし法の体系の内部において人格は自分の意志を外的領域におけるすべてにおよぼし、これを自分のものとする権利を有する。物件はそれ自身としてはいかなる目的ももたず、所有者の意志に基づいてそれが占める場所と用途を得るのである。
これが、人があらゆる「物件」に関してもっている絶対的な専有権である。
ここでのヘーゲルの考えはつぎのようなものであるかのように見える。
権利の〔つまり法と諸制度の〕体系が、すべての人格にたいしてあらゆる事物を物件〔それは人格性をもたない〕として所有する権利を与え、しかもこのことがもっぱら人格性という観点からのみ、つまり諸人格の抱く必要や欲求とは独立になされるなら、そのときこの体系が表現するのが自由意志の概念であり、そうした自由意志をもつものとしての自由な人格の尊厳という概念であり、あらゆる物件にたいする自由な人格の優位という概念なのである。
b)
ヘーゲルの考えでは、人格への尊厳を示している私的所有の体系の第二の特徴は、
人格は所有権として、もちろん人格としての他者の権利を尊重することと齟齬をきたさないかぎりにおいてではあるけれども、なんであれ自分の所有物を使ってしたいことをすることができるということである。
わたしたちの欲求なり欲望なりは揺らぎ変化するものであり、そのことが、所有物を使用したり所有権を行使したり—— たとえば所有物を売ることで ——するやり方に影響をおよぼすこともあるかもしれない。それにもかかわらず、所有権は、欲求や要望にではなく人格としてのわたしたちの資格に基礎づけられているのである。
このことは第45節に明白である。
「私があるものを、自然的なもろもろの欲求とか衝動とか、恣意とかに基づいて、私のものたらしめるという特殊的な面が、占有の特殊的な関心である。他方しかし、自由な意志としての私は占有において、自分にとって対象的であり、このことによってまたはじめて現実的な意志である。この面が、占有における真実で正当なもの、つまり自分のものとしての所有の決定をなしている。」
岩波文庫『法の哲学』上巻 第1部 第1章 「所有」 第45節 本文 p.149
私が何ものかを私自身の外的な支配力のうちにもつということが占有を形成するのと同様に、私が何ものかを自然的な欲求やもろもろの衝動や恣意にもとづいて私のものにするという特殊的側面が、占有の特殊な関心となる。しかし、自由な意志としての私が、占有において私にとって対象的となり、そうなることでまたはじめて現実的な意志となるという側面が、占有における真実にして合法的なものであり、所有の規定をなすのである。
加えて註解から引用する。
「自分のものとしての所有をもつことは、欲求に関しては —— 欲求が第一のものとされる以上 —— 〔それを満足させるための〕手段として現れる。だが真実の立場はこうである、すなわち、 —— 自由の見地からすれば、自分のものとしての所有こそ、自由の第一の現存在 Dasein として、本質的な目的それ自身なのである。」
岩波文庫『法の哲学』上巻 第1部 第1章 「所有」 第45節 註解 p.149
所有物をもつということは、欲求が第一のものとされるときには、それとの関係で欲求を充足する手段であるようにみえる。しかし、所有の真なる位置は、自由という見地からして、所有が自由の最初の定在として、本質的な目的それ自身であるということである。
c)
第三の特徴は、
諸人格とは諸個人であるから、彼らにとっては、所有というものは私的な所有として対象的なものとなるということである(第46節)。
岩波文庫『法の哲学』上巻 第1部 第1章 「所有」 第46節 本文 p.150
私の意志が、人格的な意志として、したがって個別者の意志として、所有物において私にとって客観的となるのであるから、所有物は私的所有という性格を具える。
そして、その本性上個別化されて占有されることのできるような共同の所有物は、即自的には解体可能な共同性という規定をもつ。その共同性に私の分けまえをゆだねたままにするか否かの問題は、それだけとしてみれば、恣意のことがらである。
身体についても類似の事情にある(第48節)。
岩波文庫『法の哲学』上巻 第1部 第1章 「所有」 第48節 本文 p.154
肉体が直接的な定在であるかぎり、肉体は精神にふさわしくない。精神によって意志をあたえられた器官であり、活性化された精神の手段であるためには、まず最初に精神によって占有されなければならない。
しかし、他人にとっては、私は本質的に私が直接的にもつ肉体において自由な存在なのである。
もし私の身体が自由意志をもつものとしての私の人格の道具であるべきだとするならば、私はそれを所有しているのでなければならない。私は自分の身体〔を所有するという点〕において自分自身にたいして対象的になるのである。しかし他者の見地からすれば、私が事実上自由な存在であるのは自分の身体においてであり、私がそれを所有しているということは直接的な事実であって、当然の事柄である。こうして私の身体は私の自由を最初に具体化するものである。わたしたちはみななんらかの身体をもっているにちがいない。身体が異なるという事実によってこそわたしたちはたがいに区別し合うのである。
身体の所有をそもそもまったく許されないとは、殺されることである。これは何かしらと類似したことだが、そもそもいかなる所有物をもつことも許されない〔プラトン『国家論』における防衛省(=戦士たち)がそうであったよううに〕とは、人格性の権利を侵害されることである。なるほどこのような侵害は、身体をまったく奪われてしまうことと同程度に重大なことであるわけではない。しかし、依然としてそれは、他者のもつ類似の権利によっては要求されていない仕方で、人格性の行使が深刻に制限されることではあるのである。
こういった次第で、人格にたいする尊敬は、身体の完全さに尊敬を示し、また、害さず傷つけずもちろん隷属もさせるなかれという命令 precept を尊重すること〔それは他者がその身体を意のままに用いようとするのを拒むことである〕によって、表現されるわけである。
同様にして、人格への尊敬とは、なんであれ所有しているものを尊重することで示されるのである。
人々はどれだけのものを所有すべきであるかとか所有の平等とかに関する問題は別途に生じてくるのであって、抽象的な権利ないし法の問題ではない(第49節)
岩波文庫『法の哲学』上巻 第1部 第1章 「所有」 第49節 本文 pp.155-
外的な諸物との関係において、私が所有物を占有するということは、理性的なことである。
しかし、特殊的なものという側面は、主観的なもろもろの目的や欲求や恣意や才能、それに外的な周囲の事情などを含有している。そして占有は単なる占有としては、このような特殊的側面に依存している。しかし、こうした特殊的側面は、抽象的な人格性というこの圏域においては、まだ自由と同一ではない。だから、私が何をどれだけ占有するかは、法的にはまったく偶然なことである。
補遺のタイトルは《財の平等》
自由
岩波文庫『法の哲学』上巻 訳注 (30) pp.400-
ここで自由といわれているものは、人倫的自由という水準での自由のように、特殊と普遍を統一させた自由ではなく、形式的な、ただ各自は占有する権利を有しているという水準での自由である。そこで、何をどれだけ占有するかなどは個人の勝手にまかされている。
4
4-1
ここまでのところは、私が理解するかぎりでのヘーゲルの見解をパラフレーズして、それを私にとってより明瞭な言葉に置き換えてきただけである。それが十分明瞭に表現され、歪められていなければと願うものである。
所有の体系が —— またはいかなる法ないし権利の体系も —— 自由を表現すべきであるとすれば、何が求められるのかという点から、ヘーゲルの推論が厳密に進められているように見えることは、非常に重要なポイントである。
もしくはより完全な言い方をするなら —— 所有の体系が自分自身を自由な意志として意志する概念を表現すべきであって、それゆえに自分自身を自分の対象とみなすのであれば、何が求められるのかという点から、ヘーゲルの推論が厳密に進められているように見えることは、非常に重要なポイントである。
人格の概念、人格性の概念の基盤をなすのは、この自由意志の概念にほかならなない。
ヘーゲルは厳密な意味での論証を呈示しているのか否か、あるいはせいぜいそれをしようと試みているにとどまるのか否か、この点については考察しないでおこう。それをするのは並はずれて困難なことであろう
4-2
しかし、わすかながら一般的なコメントをしておきたい。
第一に銘記してほしいのは、ヘーゲルは、私的所有の優位や、個人的な人格や全体としての社会へと訴えかけることは、毫すこしも意図していないことである。長い目で見たときに所有ということが社会にたいしてもたらす望ましい帰結といったものに、彼は訴えてはいないのである。人々が自分の所有物を用いてしたいと思うかもしれない事柄にも訴えていない。
この点で彼は、法ないし権利の体系を功利的ないし福祉本位に説明し正当化することには、ラディカルに反対している。彼以前にはカントが反対していたようにである。
これが自由に関するリベラリズムなるものの特徴なのであるが、この点については次講で立ち入って説明する。
4-3
それほど明確ではないが、ヘーゲルは、もし私的所有が認められなければ諸人格はなんとしても自由な公民へと成長することができないと言わんばかりの仕方で、諸人格が私的所有にたいして抱く心理的欲求に訴えることは、していない。たしかに彼は、なんらかの点でこういった欲求について説明しようとするだろうが、とはいえ、いの一番にそれに訴えかけようとはしないのである。
抽象的な法ないし権利の節において、私的所有に関する推論が関心を向けているのは、私的所有が自由を最も適切に表現するものであることを示すことである。ほかならぬこのことにおいてこそ、ヘーゲルの教説にまつわる格別の特徴が理解される。他の事例を提示しようとは思わないが、同一のパターンが一貫して見て取られる。
以上、自由意志の概念と私的所有の概念とを扱ってきたわけだが、それというのも、この概念は〔『法の哲学』の鍵概念群のなかでは〕比較的明確であるために主要な論点を描写することができるからである。
第5節 「市民社会」
pp. 495-
1
1-1
人倫の三つの主要な制度とは家族、市民社会、国家であることを想起してほしい。
家族とは、自然ないし直接的な位相における人倫である。やがて家族が実体的に統合されて市民社会にいたる道筋が付けられるのだが、この市民社会とは、抽象的ないし形式的であるにすぎない普遍性における諸個人の共同体なのである。
ついで、今度は市民社会が、国家ならびにその合法的な諸権力によって、実体をともなった普遍的なものへと取り戻される。たしかに市民社会は家族から直接には生じない。家族における諸物件の秩序は概念的なものであり、歴史的だと言えるのはヘーゲル〔が用いる「歴史的」という術語〕の広い意味においてだけである。
わたしたちにとって重要なのはつぎのことである。たとえば所有のような法ないし権利の体系においては市民社会は要求されない、そうではなくてむしろ、所有において意志が自由だと意識することが可能なのは、じつに、たとえば自由市場のような市民社会の諸制度のおいてであり、かつそれを通じてであるにほかならないということ、これである。
1-2
市民社会は三つの要素を含む
a)
もろもろの欲求 Bedürfnisse の体系。
これは、諸個人が欲求を満たすべくそこで財やサービスを〔貨幣と〕交換する、そうした経済的秩序 economy である。この秩序が進歩するのに応じて、欲求は新たな形態をとって発展していくのである。欲求というものが満足させられるその仕方は、交換によって決定されるようになる。分業が促進される一方、個人と家族は自分たちがたがいに依存し合っていることに気づく。諸階層 Stände はつぎのよゆな形態をとる。農業階層、営業階層、公僕である「普遍的」階層、この「普遍的」階層〔の成立〕とともに近代的な秩序は成立するのである。
b)
「司法」 Rechtspflege
抽象的な法ないし権利は、実定的かつ公表され周知された法という形で定式化される。こうした公共的な側面は法の本質的な一特徴であり、諸個人を危害から保護するために工夫される。これは新しい要素である。
市民社会では「人間が人間とみなされるのは、彼が人間であるからであり、彼がユダヤ教徒、カトリック教徒、プロテスタント、イタリア人等々であるからではない〔…〕(第209節)
岩波文庫『法の哲学』下巻 第3部 第2章 B 「司法」 第209節 註解 pp.113-
私が普遍的な人格として理解され、その点では、万人が同一であるということは、陶冶とうや教養すなわち、普遍性の形式における個人についての意識としての思惟に属している。
人間がこのように普遍的な人格に値するのは、人間が人間であるからであって、彼はユダヤ人であったり、カトリック教徒であったり、プロテスタント信者であったり、ドイツ人であったり、イタリア人等々であったりするからではない。思想が関係するこのような意識は無限に重要である。 —— この意識が欠陥をもつのは、これがたとえば世界市民主義として、具体的な国家生活と対立するように固定化されるときだけである。
欲求の体系において組織された自律的な self-sufficient 諸個人が、司法の体系を通じて彼らの人格と所有とを保全する措置がとられることと結びつけられるおかげで、ヘーゲルが言うところの「形式的普遍性」への上昇が生じるのである。
c)
「ポリツァイ」 Polizei と「コルポラツィオーン」 Korporation
ポリツァイは Politeia というギリシア語に由来し、その意味は "police" という英語よりも格段に広い。この言葉は、ヘーゲルの時代には、法的な強制のみならず、必需品の価格設定、商品の品質規制、救貧院の設置運営、街路の照明、その他の事項をも、覆うものであった。ヘーゲルは市民社会の諸問題について、検討に値する議論を展開している。彼は、貧困の増大と怨嗟えんさに満ちた賤民 Pöbel とには頭を痛めていたが、それにたいする答えを与えてはいない。
ヘーゲルのいうコルポラツィオーンとは、被雇用者のみならず雇用者をも含むものであるから、労働組合のことではない。それは宗教団体や学会や町議会をもカバーするのである。コルポラツィオーンの役割は、欲求の体系〔経済的秩序〕において利己主義が競合するのを緩和し、市民が国家の公民としての生活を送るべく準備してやることである。こうして、市民社会は今度は、実体をともなった普遍的なものへと、国家とその憲法に基づく諸権力によってそうした普遍的なものに捧げられた公共的な生活へと、連れ戻されるのである。
〔ここで私は『法の哲学』の第157節でのヘーゲルの語法を用いている。〕
岩波文庫『法の哲学』下巻 第3部 「人倫」 第157節 本文 p.31
この〔自由の〕理念の概念は、精神として、みずからを知るものにしてかつ現実的なものとしてのみ存在する。というのは、この精神は自分自身を客観化するものであり、みずから諸契機という形式を通じての運動だからである。精神はそれゆえに、
A 直接的ないし自然的な人倫的精神 —— 家族である。この実体性はその統一の喪失へと、分裂へと、相関的なものの立場へと移行する。そこでこの実体性は、
B 市民社会である。それは、自律的な個別者としての成員の結合であり、したがって個別者の欲求を介しての、もろもろの人格や所有の安全を保証する手段としての法体制を介しての、そして個別者の特殊的利益や共通の利益のための外的秩序を介しての形式的普遍性における結合である。このような外面的国家は、
C 実体的で普遍的なものおよびそれに捧げられた公共的生活の目的と現実性のうちに、 —— 国家体制のうちに引き戻され、統合される。
市民社会
岩波文庫『法の哲学』下巻 訳注 (32) p.379
原語は bürgerliche Gesellschaft である。この「市民社会」のヘーゲルによる位置づけは、政治学的な概念形成の歴史において体系的な変換をもたらした。それまでは、国家と市民社会は同一視されていたが〔ヘーゲルによれば「外面的国家」〕、ヘーゲルは、国家の政治的圏域と市民的圏域〔市民社会〕とを区別する。
国家体制
岩波文庫『法の哲学』下巻 訳注 (35) p.380
原語は Staatsverfassung である。 Verfassung は「国内体制」としたが「憲法」の意味もある。ヘーゲルにあっては、国家は、家族と市民社会の真の基盤であり、具体的全体であって、両者はここあら抽象されたものである。しかし『法の哲学』において、国家ではなく、「抽象的なもの」から出発することについては『哲学的諸学のエンチュクロペディー』第408節 補遺 参照。
2
2-1
ヘーゲルは市民社会についての自分の説明をきわめて重要なものだと見なしている。このこと自身によってヘーゲルは他の著述家たちから区別される。市民社会とは、ヘーゲルがそれを構想した当時においては、近代国家にとって目新しいものであって、近代性それ自体を特徴づけるものであった。
彼の見解が際立っているのは、国家の諸契機だとみなされてきた事柄の多くを、実際には市民社会の諸契機なのだと考察したからである。
たとえば司法制度やポリツァイやコルポラツィオーンについての上述の議論を参照してほしい。ポリツァイとして機能する国家と市民社会とはともに広い意味での国家ではあるが、前者は後者から分離されるのである(第267節)
岩波文庫『法の哲学』下巻 第3部 第3章 「国家」A 「国内法」 第267節 本文 p.207
観念性における必然性は、理念のそれ自身の内部における展開である。それは、主観的実体としては政治的志操であり、客観的実体性としてはこれとは区別された、国家の有機的組織、すなわち本来の意味での政治的国家とその国内体制である。
岩波文庫『法の哲学』下巻 第3部 第3章 「国家」A 「国内法」 第267節 補遺 pp.207-208
《制度としての国家》
みずからを意欲し、みずからを知る自由という統一性は、さしあたりは必然性として存在する。ところで、ここでは実体的なものは諸個人の主観的現存在としてである。しかし有機的組織は必然性のもうひとつの様式である。すなわち、精神は自分自身における過程であり、自分のうちでみずからを分節化し、自分のうちで、区別を定立し、その区別を通じて円環運動をなすのである。
2-2
ギリシア人の社会と対比してみることが理解に助けになるかもしれない。ギリシア人の社会についてヘーゲルは、それが人倫に関してもっていた形式は二つだけだと理解する。そこには家族と国家ないしポリスのみが存在し、市民社会がなかったのだと。
市民社会は『法の哲学』のなかでは諸概念の弁証法的な展開の過程で国家に先立って現れるけれども、歴史的には国家の最初の諸形態のあとを追って発生した。
ギリシア人の社会は市民社会を欠いていたがゆえに、その成員は、自分たちのことを、我が物と見なして追い求めたいと思う特殊個別的な利害関心の数々を抱く諸人格なのだとは、理解することがなかったのである。結論としては、彼らは自分自身の何者たるかを反省することなしに家族なり個々の国家なりの成員と見なしていたのであり、こうした社会的諸形態の利害関心を追求するにさいして、よりいっそう普遍的な利害関心を考慮に入れようとする意識がそのことを躊躇させ戸惑わせるといったことはなかった。
生のこうした無反省な形態が不安定なものとなり、反省的思考の出現におよんで朽ち果てるのは避けがたいことである。
2-3
当時の大方のドイツ人と同様にヘーゲルは古典ギリシアの文化におおいに惹かれ、それが終焉を迎えた理由について周到に思索をめぐらした。この結果、彼はきわめて基本的な諸問題を提起することになった。すなわち、人倫という反省的形態が安定したものでありうるということが可能なのはいかにしてであるか、という問いである。
もちろん、この問いを、自分自身を自由なものとして意志する自由意志の見地からもっと洗練させることもできるが、それは見合わせることにする。
ここでのポイントは、市民社会ならびにその諸制度は、反省的な社会的生のある安定した形態を可能にするうえで、重要な役割を担っているということである。
3
3-1
このポイントが二つの制度に関してどのように効いてくることになるのか考察しよう。
ひとつは、ヘーゲルが読んだ古典的な経済学者の構想した自由市場という制度であり、もうひとつは宗教の自由〔という制度〕である。
3-2
ヘーゲルの描く市場における人々は、各自に固有の利害関心を追求し、その目的を達成すべくおたがいを手段として用いる。ここまでの主張はすべてお馴染みのものに聞こえる。しかし、市民社会のひとつの原理が具体的な人格 —— つまり欲求と気まぐれの混じり合った特殊個別的な目的を抱いた人格 —— であるのにたいし、もうひとつの原理は普遍性という形式なのである。彼は言っている、
「特殊的目的は〔…〕自分自身に普遍性の形式を与えるのであり、自分の福祉と同時に他人の福祉を一緒に満足させることによって自分を満足させる。特殊性は普遍性という制約に縛られているから、〔市民社会の〕全体が媒介の基盤である。そしてこの地盤においては、いっさいの個別性、いっさいの素質、生まれと運のいっさいの偶然性が思いのままにふるまい、あらゆる情熱がうねりをなして奔出するが、これらはこれらを通して輝き出してくる理性によってのみ統御される。普遍性によって制限された特殊性だけが目安となる標準であって、それぞれの特殊性〔特殊個別的な人格〕はこれによって自分の福祉を促進させるのである。」(『法の哲学』第182節 補遺)
岩波文庫『法の哲学』下巻 第3部 第2章「市民社会」 第182節 補遺 pp.75-76
《市民社会の概念》
市民社会は、家族と国家とのあいだに登場してくる差異性〔の段階〕である。たとえ、その市民社会の形成が国家の形成より遅れてなされるにせよ。というのも、差異性として市民社会は、国家を前提とするからであり、市民社会は存立するために、自立的なものとしての国家をみずからのまえにもたなければならい。
〈略〉
市民社会においては、各人がみずからにとって目的であり、その他のすべてものもは彼にとって無である。しかし、他人との関係なしには、各人は自分の諸目的の全域を達成することはできない。それゆえに、これらの他人は特殊者の目的のための手段である。しかし、
特殊的目的は、他人との関係を通して普遍性の形式をあたえられるのであり、そして、それが充足させられるのは、同じく同時に他人の利福を充足することによってである。特殊性は普遍性という条件に結びつけられているから、全体が、媒介の基盤である。そこではすべての個別性、すべての素質、生まれや運のすべての偶然性が解き放され、またあらゆる激情の波浪がほとばしりでる。それらは、そのうちへと仮象として現れてくる理性によってのみ制御される。特殊性は、普遍性によって制限されて、それだけが尺度となり、これによって各特殊性は自分の利福を促進することになる。
岩波文庫『法の哲学』下巻 第3部 第2章「市民社会」 第182節 本文 p.75
具体的な人格、すなわち特殊的なものとしての自分にとっての目的である人格は、もろもろの欲求の全体として、また自然必然性と恣意との混合として、市民社会の一方の原理である。 —— しかし、特殊的人格は、本質的には他の同様な特殊性との関係のうちにある。したがって、各々の人格は他の人格によって、そして同時にただ他方の原理である普遍性の形式によって媒介されたものとしてのみ、みずからを通用させ、満足をえるのである。
3-3
ここで「~をとおして輝きだ」し情熱のうねりを統御する理性とは何であろうか?
それは単純に言うなら経済法則、つまり供給や需要その他すべてにかかわり社会的資源の効率的配分を可能にする法則のことであり、アダム・スミスが『諸国民の富』〔『国富論』 1772年〕で説明しようとしたものである。
これは、ばらばらの利害関心と特殊個別的な目的を追求する具体的な諸人格が取り結ぶ関係〔を表現する〕にふさわしい、普遍性の形式である。
自分が相手にたいして取り結んでいる関係をおたがいに反省し合うことで、市民社会の成員は相互に依存し合っていることに気づくにいたるが、このことは、彼らを国家それ自身のもつ普遍的な目的 aim 〔という本来いるべき場所〕へと導く役割を演じるのである。〔ここでは市民社会における他の諸制度が非常に重要であり、なかんずくコルポラツィオーンがそうであるが、どのように重要なのかは次講にて言及する〕
4
4-1
ヘーゲルが言うには、近代国家の偉大な強さとは、それが「真に無限の力」をよりどころとする点にあるが、この
「真に無限の力は、理性の〔含む普遍と特殊との〕対立関係を徹底的な厳しさにまで押し進めて〔…〕この対立関係を圧倒してしまい、こうしてこの対立関係のうちにおのれを保ち、おのれのうちにこの対立関係を統合しているような、そういう一体性のうちにだけ存するのである」(第185節 註解)
岩波文庫『法の哲学』下巻 第3部 第2章「市民社会」 第185節 註解 pp.80-
特殊性の自立的な発展は、古代諸国家においては、突如として降りかかってきた人倫的な退廃や国家没落の究極的な根拠として示される契機である。
これらの国家は、あるものは家父長的で宗教的な原理において、またあるものはより精神的ではあるがより単純な人倫の原理において、総じて根源的な自然的直観にもとづいて建設されたために、この直観の分裂と自己意識の自分のうちへの無限の反省とに耐えることができず、そしてこの反省が頭をもたげはじめるや否や、まず志操の面で、ついで現実性の面で、この反省に屈服してしまった。というのは、
これらの古代国家のまだ単純な原理には、理性の対立を、これがもつぎりぎりの強度にまで分裂させるとともに、この対立を圧倒してしまい、したがってこの対立のなかでみずからを保持し、みずからのなかでこの対立を結び合わせるような統一にのみ存する真に無限の力が欠けていたからである。
〈略〉
補遺のタイトルは《社会の緊急状態の調停者としての国家》
あるいはもっとあとでヘーゲルが述べるには、
「近代国家の原理のもつ当方もない強さと深さは主体性の原理がおのれを完成して人格的特殊性という自立的な極点になることを許すと同時に、この主体性の原理を実体として一体である状態のうちへと連れ戻し、こうして主体性の原理そのもののうちにこの一体である状態を保つということにある」(第260節)
岩波文庫『法の哲学』下巻 第3部 第3章「国家」 A 「国内法」 第260節 本文 pp.196-
国家は具体的自由の現実性である。しかし、具体的自由は、人格的個別性とその特殊的利益がその完全な発展とその権利のそれ自身としての承認を〔家族および市民社会の体系において〕得ているとともに、また同様にそれらが、一方では自分自身を通じて普遍的なものの利益に移行し、他方では知と意志とをもってこの普遍的なものを、しかも自分自身の実体的精神として承認し、そして自分の究極的目的としてのこの普遍的なもののために活動的であるということにおいてなりたつ。
〈略〉
現代国家の原理は、主観性の原理がみずからを人格的特殊性の自立的極にまで完成することを許すと同時に、この原理を実体的統一に連れ戻し、こうしてこの原理そのもののうちにこの統一を保持するという驚嘆すべき強さと深さをもつのである
補遺のタイトルは《現代国家》
4-2
こうした思想の展開の一部として、第270節に宗教についての長大かつ込み入った註解が付せられているが、ここでその要約に着手することはできない。
しかし、市民社会における主体性と個別性の原理の一側面が、個人的で私的な生活において各人が利害関心を追求することであるとするなら、〔かの原理の〕別の側面をなすのが宗教の自由、しかもあらゆる宗教の自由なのだという点は、強調される必要がある。宗教の自由において、市民社会の制度が反省的な社会的生の安定した一形態を可能ならしめる第二の方途が見いだされるのである。
4-3
第270節の註解はつぎのように締めくくられている。
「国家は、精神のおのれを知る倫理的現実性として現存するためには、権威や信仰の形式から区別されることが必要である。
しかしこの区別は、教会の側がそれ自身において分離するにいたるかぎりにおいてのみ現れる。
こうなったときにのみ国家は、もろもろの特殊的な教会を超えて、思想の普遍性というおのれの形式の原理を獲得したのであり、普遍性を現実に顕現させることになるのである。このことを認識するためには、普遍性がそれ自体において何であるのかということだけではなく、普遍性が現実に顕現する姿がどうであるかということをよく知らなくてはならない。
だから、国家にとって教会の分離は不幸ではなかろうかとか、不幸だったのではなかろうかと、考えるのはとんでもないことであって、国家は教会の分離によってのみ、おのれの使命であるところのもの、すなわち自覚的な理性状態と倫理態になりえたのである。
またこの分離は、教会にとっては教会自身の自由と理性的状態とのために生じえたところの、そして思想にとっては思想の自由と理性的状態とのために生じえたところの、最大の幸福なのである。」(第270節 註解 末尾)
4-4
これは和解としての哲学の好例である。
というのは、16世紀ならびに17世紀におこった寛容をめぐっての初期の論争が示しているように、〔宗教的〕寛容を容認することは当時の人々にとってはほとんど不可能なことだったからである。キリスト教徒の分断は彼らにはまったく災厄のごとく思われたのだ。彼らが寛容を国策として容認するにいたったのは、果てしない宗教戦争によって社会が破壊されてしまうだろうことを恐れたからにすぎない。
それにたいして、いまやヘーゲルは教会と国家の分離ということを述べるわけだが、幾世紀を経た今日においてわたしたちは、寛容ならびに教会と国家との分離は近代的自由 —— 自分自身を自由なものとして意志する自由意志という意味での自由 —— にとって必須だと理解する以上、かの主張と和解するにいたることができる。つまりわたしたちはかの主張を容認するのである。
4-5
この註解はまたヘーゲルが理性の狡知と呼ぶものの好例をも含んでいる(注釈 6)。
(注釈 6)
「理性の狡知」
世界史についての講義『歴史哲学講義』でヘーゲルは述べている。
「対立と闘争に巻き込まれ、危険に曝されるのは普遍的理念ではない。普遍的理念は侵されることなく、闘争の背後にちゃんと控えている。そしてこの理性が情熱を勝手に働かせながら、そのさいに損害を被り、痛手を受けるのは〔理性ではなくして〕この情熱によってつくり出されるそのものだということを、わたしたちは『理性の狡知』と呼ぶ」
『世界史講義』序文も参照せよ。ヘーゲルの歴史哲学と世界に関する形而上学的見解とが一目瞭然であるのは、とりわけこれらの講義においてである。
アレン・ウッド『ヘーゲルの倫理思想』による議論も参照。
〔たとえば〕皮肉なことに、マルティン・ルターは、最も不寛容な人物の一人と言っていいが、その彼こそ近代的な解放としての自由 liberty の先導者であることが判明するのだ。これは、ヘーゲルが強調する歴史というものの一面 —— 歴史上のおもな出来事に大きな影響をおよぼした偉人が、かならずしも自分のしたことの真の意義を理解したわけではないということ —— である。この歴史の一面とは、彼ら偉人たちは、さながら神の設計した計画が時間を追って進展するのにしたがって駆使されるのであって、出来事の流れに沿ってはめ込まれているかのようだ、ということである。
4-6
私が努めて指摘しようとしてきたのは、ヘーゲルは近代国家の諸制度について説明する場合に、それら諸制度の諸特徴が自由ということの異なる位相を表現し構成するその仕方を、区別しようと意図しているが、これはいったいどんなふうにか、また、本文が錯綜していてもある筋の通った明快な意味が与えられることもしばしばあるが、それはいったいどんなふうにか、といったことである。
あいにくなことだが、ヘーゲルの見解を誤解してしまうことにたいしては十分に警戒してきたとはいえないし、近代国家の諸制度を記述していると彼が自負するのは、国家が理性的 vernünftig であるかぎりでのことだという点を十分に強調してきたわけでもない。
彼は、現実に存在しているこれらの諸制度の配置の全位相を擁護しようとするのではない。実際、悪しき腐敗した国家とか、人間の不幸や苦悶であるとかを彼は考慮に入れているのである。戦争による恐ろしい犠牲とか、離婚による不幸とか、貧困に起因するルサンチマンや憤慨から生じる道徳的な悪とかは、言わずもがなである。
いま列挙したような諸悪がヘーゲルのいわゆる「賤民」、つまり近代国家の下層階層〔これは身分によってではなく富や地位のレベルによって定義される〕を苦しめるのであって、これにたいしては解決は存在しないとヘーゲルは考えている。
私はヘーゲルを、彼の考えでは近代的自由をたしかに構成している諸制度の、一個の理念的な体系を開陳するものと見なしてきた。この体系は、実在的な自由についてのひとつの政治的な人間世界ではなるが、換気と幸福の〔実現した〕政治的な人間世界ではない。後者を達成することはわたしたちの責任である。
〈了〉